あらためて認識しよう、日田彦山線の歴史

あらためて認識しよう、日田彦山線の歴史

今年7月の九州北部豪雨により被災した「JR日田英彦山線」は復旧工事費が70億円とされ、いまだ今後の方針が示されず、沿線住民は不安の中で心から復旧を祈っています。そのような中、北九州市出身の記者である上田真之介さんがネット上で「日田彦山線の歴史」について記述した文章があったのでご本人の許可を得て、以下に引用させていただきました。先人が苦労して完成させた日田彦山線の歴史を心に刻みながら、存続に向けてみんなでがんばりましょう!!

(以下、記者の上田真之介さんの文章から引用。※注は井上明夫が記述

日田彦山線の歴史(紆余曲折の日田彦山線南側工事)

(1)日田彦山線は複雑な歴史をたどってきた。ただ、おおむね筑豊炭田のあったエリアを境に事情が異なり、田川郡添田町以北は石炭運搬を主目的に路線網が発達。国有化と小倉地区、田川地区の路線改変を経て60(昭和35)年までに現在のルートに落ち着いた。炭鉱なき今、日田彦山線の北側区間はもっぱら北九州市への通勤通学の足になっている。

(2)かつて輸送方法の主力は水運であったが、やがて鉄道輸送に注目が集まり、「各鉄道争ふて線路を延長せんとし、新起の鉄道、またその敷設に営々たる」(筑豊炭鉱誌)状況。田川市周辺は多くの鉄道が敷かれ、小倉鉄道は開通翌年には6往復だった便数をすぐに9往復にまで増やした。

(3)その一方で、今回の被災区間に重なる添田-夜明間は計画こそ持ち上がるが敷設が遅れていた。沿線に宝珠山炭鉱(現東峰村※注・1916年(大正5年)に一抗が開坑、1935年(昭和10年)に二坑が開坑)があるものの、田川付近ほどは炭鉱数や出炭量に恵まれず、さらには山がちな地形で、線路を敷くには橋やトンネルなどの構造物が多く必要だった。時代が異なるが、1939(昭和14)年の宝珠山炭鉱の出炭量は12万4263トン。これは三井田川(196万4732トン)や二瀬(現飯塚市、101万7476トン)に遠く及ばない。

(数値は筑豊石炭鉱業史年表および本邦鉱業ノ趨勢による)

(4)こうした状況と大正末期の不況も災いして、昭和に入るまで進展はなかった。転機は1927(昭和2)年。「添田・日田間鉄道速成連盟発起人会」が立ち上がり、帝国議会でも審議が始まったのだ。そして33年、ようやく鉄道省で省議決定。

(※注・ちなみに濱口内閣で日田市大鶴出身の井上準之助が大蔵大臣を務めた期間は1929年7月~1931年12月。)

このときの様子を当時の新聞は次のように伝え、決定までの紆余曲折をにじませた。

「新線が敷設法を改正して指定されたが、これは元来中津から日田に至る予定線の修正線で、須崎窪川線(※土讃線)と同様三十分の一の勾配を許す建設簡易規定のお陰で(略)建設が可能になったわけである」

(出典:福岡日日新聞、1933年12月10日付。宝珠山村史より引用)

既存計画を変更し、最大勾配を緩和し、ようやく添田-夜明間が4工区に分かれて1935年(昭和10年)に着工。2年後には早くも宝珠山-夜明-日田間が先行開業した。

291126日田彦山線

難工事を経て完成も…

(5)宝珠山村史によれば、着工後は順調に工事が進み、1936年に着手した釈迦岳トンネル(4380メートル)の掘削も日進70メートルの速度で進んだという。ところが、「880メートルの地点で地質が急に変化し(略)破水帯対策に追われ、まったく前進できない日々が続いた。工事事務所ではあらゆる手段を使ったが、うまくいかなかった」(宝珠山村史・歴史のなかの宝珠山村)。5年での開通を見込んだ工事は遅れ、さらには日中戦争の長期化などのあおりを受け、ついに1941年に工事は中断してしまう。

終戦後の1952年にようやくトンネル工事が再開。それでも出水に加え、落盤事故による死傷者を出す難工事となり、4年の歳月をさらに費やして1956年(昭和31年)に全通した。村史は「工事の再開は、第二次世界大戦の終戦を待たねばならなかった。近代化と国策・戦争とに振り回された村の一コマである」と伝える。戦前に建設された添田以北とは異なり、難産の路線となったのが、添田以南の現在不通となっている区間なのだ。

以上が日田彦山線添田-夜明間の概略である。なお年代や数値は福岡県史、宝珠山村史、筑豊石炭鉱業史年表(1973年)を参考とした。

(以上、ライター・上田真之介さんの文章から引用。※注は井上明夫記